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現実を、「達観」せよ。


中高年であるあなたの転職・就職活動時の採用・不採用は、必ずしも「あなたの価値」を考慮したうえで、決められているわけではない。


中高年の就職・再就職・転職事情の厳しさは、いまさらここで言わずとも、すでにあなたが、よくご存知の通りである。


北海道や東北・沖縄などの、就職率が「全国ワースト3」といわれる地方においての状況は、とりわけ厳しい。


それらの地域では、20歳台の有効求人倍率を仮に1.5倍とすると、40歳台後半では0.2倍から0.5倍くらいで推移しているのが実態であり、2倍を超える愛知県や20歳代の若者の就職活動と、同じ言葉でくくって話すのがためらわれるくらいである。


人口の多い都心部なぞはまだマシなほうで、地方では、それくらい中高年を求める企業の絶対数が、極端なまでに少ないのだ。


中高年のあなたが普通に就職活動をしたとしても、求める仕事を得られる確率は、そもそもの始めからして、限りなく低い。


いくら一生懸命、履歴書や職務経歴書を書いて送ったとしても、通常の会社の場合は、年齢欄をチラとみられただけで、履歴書は机の引き出しにしまわれてしまい、再びチラとも見られることはない。


残念ながら、これが、あなたが何時間も費やして書いた履歴書・職務経歴書の扱われ方の現実である。


だから、まずあなたは、そもそもからして、とんでもなく厳しい条件の中で闘っていることをよく認識すべきだ。


あなたのキャリアや仕事能力や人間性、社交性などとは全くお門違いのところで、すなわち「あなた個人の本質」に関わらない世界で、採用合否が判断されている可能性がかなり高いということを、よくよくココロに刻んでおく必要がある。


誰かに文句を言ったところで、はじまらない。
それよりは、この現実を直視するところからスタートするほうが、より的確に次の手を打てるだろう。


現実がそうである以上、あなたにも、ある意味の「達観」が求められるということである。



決して、自分を責めるな。


中高年の転職・就職活動にとって、厳しい現実が長期化すると、どうしても最初の意気込んだ気持ちも萎え、ややもすると投げやりにな気持ちになってしまうことが、多くなってくる。


しかし、この先の長い人生を見すえてほしい。
まさにここが、あなたの踏ん張りどころである。


完全にあきらめてしまい、就職活動を投げ出して引きこもってしまったり、酒やギャンブルなどの現実逃避に走ったりして、自分自身をすさんだ毎日に貶(おとし)めてしまってはならない。


踏ん張るために必要なのは、まずは十分な休息と、栄養のバランス、そして生活に一定の規則正しいリズムをとりいれること、である。


疲れたら、まずは、十分な睡眠時間をとったうえで、軽い運動をしたり、適度にリラックスすることだ。


そして、あなたに出来る範囲で、時々は、意識的に気分転換をはかることだ。


夜は早めに休み、早起きして、きちんと朝食をとる。


ちなみに、大事な考え事や計画は、朝にする習慣をつけるようにしよう。
頭の活動は、朝は夜の三倍くらい、効率がアップするといわれている。


休息も、とり方に変化をつけて、日々の生活の中に組み込んでいこう。


たとえば、日帰り温泉に、ゆったりつかってみる。
家族と散歩をしながら、会話をする。
テレビの古い名作映画を、じっくりとみてみる。
外で、好きな歌を何曲も、ひとり声に出し歌ってみる。
無料の野外コンサートに、でかけてみる。


酒を飲むのは、よほどうれしいことやおめでたいことがあったときだけにしておこう。


さほどのお金をかけずに、リラックスする方法は、いくらでもある。


まずは、自分自身を適度に甘やかし、ねぎらってあげること、自分自身をいたわる気持ちをもつことだ。


あなたの外界をとりまく就職事情が厳しいからといって、あなたまで自分自身につらくあたる必要性は、どこにもないのだ。あなた自身こそが、唯一あなたを裏切らないことを確信できる、無二の存在ではないか。


自分の内面をいたわり、自分をはげましながら、少しでも前に進むための努力を、続けていくことだ。


金銭的な不安を時間をかけて解決する方法は、実は、世の中には意外に色々とあるものである。
あせって自分を責めることで、エネルギーを無駄に費してはならない。


明けない夜はない。そして、夜明け前が一番暗いのだ。


肩の力を抜いて、「いつか、なんとかなる」という「達観」と「楽観」をひそかにココロの内にもったまま、前を向いて進む気持ちを、忘れないようにしよう。



自分を励まし、道を照らす「言葉」を持ちたい。


安易に他人のアドバイスに頼るのも、どうかとは思う。


また、心のスキを下手なかたちで外に見せると、新興宗教などの勧誘や悪質な商法のカモに
されて、とんでもないめに会う危険性だってある、御時世だ。


しかしまた、人はおのれの信念だけを拠り所に、人生を生きられるものではない。


人はそれほどまでに、強くはできていない。残念ながら。


たまたま、人生の後半に差し掛かった今、新たに生活の安定を得るための職を得るということが、我々の人生のメインテーマのひとつになってしまっているわけであるが。


そういう今、心がフワフワと所在なく漂っているような気がしている方は、今の自分が置かれている状況や今の自分の思いを照らす、道あかりとなるような「言葉」を、自分の手元に置いて、時々は
読むともなく読み返してみるのがよいように思う。


別段、権威者や宗教家、有名人の言葉でなくたってもちろんよく、誰の言葉だってよい。
自分で作ってもよいのだが、世界とのつながりを感じるためにも、できれば自分以外の誰かの
言葉のほうがよいだろう。


文章でなくとも、詩でもフレーズでも熟語でも、要するに、あなたの心のうちに深く届いたメッセージを、身近に置いて、しょっちゅう気にかけてあげることだ。


それらの言葉を、身近ですぐ手の届くところに置いておくと良い。
本であればいつも使う机の前の書棚の目につくところに置き、ノートに書きとめたなら、そのノートをいつでも広げられるようにしておくとよい。


インターネットでも、時おり素晴らしい「明日を生き抜くための言葉」に出会うこともある。
あなたの心の奥に届いたフレーズをノートに書き写し時おり眺めるのも、また励まされるものだ。

最近たまたま見つけたこの記事も、読み返すたびに力がわいてくるような気がする。
引用しておこう。

打ち負かされる事自体は、何も恥じるべき事ではない (Gigazine 2006年8月16日付記事)


自分の心の琴線に触れ、なにか奥深くに届く「言葉」がいくつかでもあると、日々のさほど
変わりばえがしない生活を送るなか、わずかながらも、心に安定感がでてくるように思えるものだ。


自分が迷ったときに、その言葉が自分の必要な場所に戻ってくるための、目印になるような
気がしてくるのだろう。


私見だが、それらの言葉は、道そのものではないので、全面的に自分を放棄して、その世界に
没入してしまっては、ならないように思う。
人生において無くてはならないものにすることは、むしろ避けるべきだ。



あくまでそれらの「言葉」は、触媒であり、自分が忘れ見失っていた何かを呼び戻すための
きっかけであり、スパイスであるべきだ、と思う。


手を伸ばせばその言葉に触れられることで、自分が世界のどこかとつながっているような感覚を、かすかに感じさせてくれる気がする程度。

それくらいで、ちょうどよいように思う。


最後に、私が手元においている一冊、そしてその中に収められている中からひとつだけ、
引用して紹介しておこう。

「私にとっての大切な言葉」を、私が持っている証として。


”人間は誰一人として理想を生きてはいない。
 理想を持ちながら、現実は妥協でいきている。
 我々の生きる現実、対面する真実は、理想にはほど遠く、善悪の区別にも
 歯切れが悪く、どっちつかずである。
 しかしむしろその曖昧さと混沌に耐えることが、人間の誠実さと強さと
 いうものなのである。”

  (「孤独でも生きられる」曽野綾子 著  イースト・プレス)

 



同じ「幻」と向き合うなら、光が強烈なほうを選べ。


よく、我々は、分かったような顔をして、「上には上がいる」「下には下がいる」などと言う。



世界で、一日1ドル以下の「絶対的貧困」の中で暮らす人達は12億人以上おり、66億人に達する世界の人口の、およそ2割を占めるという。

特にサハラ以南のアフリカ地域では、5割近い人が、一日1ドル以下の生活を強いられているそうだ。



以前、一日1ドルで、家族5人ぐらいで暮らす家庭を支える少女の海外ドキュメンタリーをテレビで見たが、実にひどい暮らしようだった。

基本的に、食事は市場から出てくる廃棄品の食糧を主食に、炎天下一日中歩き回ってもごくわずかしか稼げないような、日銭稼ぎに費やす。


帰ってくると、今度は疲れた体で、幼い弟や妹の食事のために、いつ止まるかもわからないガスを気にかけつつ、料理の準備をする。

週に一、二度、ほんの数時間だけ出席できて、友達とも会える学校の授業が、その少女の人生における唯一の楽しみ。

そんなような、内容だった。



1ドルというと、単純レートで110円くらいだ。

物価水準の違いはあるだろうが、おおざっぱな感覚でいうと、「一家五人、一日4、5百円で暮らせ」と、言われているようなものではないだろうか。


この日本でそのようなテレビ番組を見て、目をうるませながら「かわいそうな子供達」と言っていられる時点で、すでに自分がいかに恵まれ、ありがたい環境にいる存在かということが、わかる。


一日1ドル以下の生活をしている人たちは、人の生活をのぞき見る余裕もなく、自分の明日を生き抜くだけで、その全神経を使い果たしているはずだから。



むろん、世界には全く逆の立場の、いわゆる大富豪たちもたくさんいる。

経済的に、上は青天井、下は底抜けというやつで、我々も結局は、その間のどこかに所属していることになる。



たとえばリストラされて、失業したりすると、我々は今の自分を、不幸だと感じる。


その時の我々の目線は、遠いアフリカの貧困に苦しむ人達ではなく、我々のすぐ間近にいる、毎朝ネクタイを締めて会社に向かう人たちを見ているはずだ。


しかし、目線を世界に転じてみると、我々はしょせん、世界のGNPの8割を消費する超大金持ちの2割の人々と、明日一日を生きるのも困難なこれら最下層の経済状況の人々との間を、目に見えないくらいほんのわずかに上がったり下がったりしてながら、漂っているだけの存在にすぎない。



私やあなたが、今のおかれた状況を不幸だ、恵まれていない、と感じることはもちろんあるだろうし、幸福や不幸のモノサシも、人それぞれなのはわかる。


しかし私やあなたは、少なくとも昨日も今日食べるものがなくて、売れ残りの廃棄食品を求めて
近くのスーパーのゴミ箱をあさりにいくような毎日は、送っていないはずだ。


そのようなことをしなくて済んでいるだけで、やはりこの世界では十分に恵まれている存在なのだと、私はやはり思う。


身の回りの手近な人たちと比べて、喜んだりがっかりしたりしているのは、やはりまだ徹底的に
追い込まれていないからこそ、そのような気持ちの余裕があるということなのだ。



このような書き方は自分でもはっきりエゴだと思うし、説教くさいとも思うが、あえてそう書きたい。

今、この文章は、半分は自分自身に向けて書いているような気がするのだ。



我々は人生のつらい瞬間に、自分よりはるかに過酷な境遇にいる人がいることに思いをはせ、
自分がそれより恵まれた人生にあることを、感謝するべきだ。


深くそう思うことで、今の自分がとらわれている、幸福だの不幸だのといった概念が、なんのよりどころもない、他との比較でかろうじて成り立っている、幻(まぼろし)のようなものに過ぎない
ことがわかる。



身近な隣の住人と比べようと、アフリカの子供と比べようと、しょせんはどちらも「幻」と比べながら、喜んだり悲しんだりしているにすぎないのだ。


だから、「幻はしょせんは幻に過ぎない」と、自分の心の奥底でしっかりと冷めた気持ちで、自覚していることこそが、明日を生き抜くために大事なのではないかと思う。



仮に今、求職中のあなたが、面接をパスして、再就職できたとする。


あなたは、その瞬間は、嬉しいだろう。
しかし、それすら、ひとときの移ろう「幻」にすぎないのだ。


あなたが数十年前の若きある日に、「内定を出すよ、おめでとう」と、会社から言われた時のように。



逆に今、あなたが失業して、精神的な苦しさを内面で感じているのなら、そんな幻のため心身を
すり減らす自分なぞは、まだまだ余裕があるのだ、くらいに考えていたほうがよい。


それは、今日という一日を必死の思いで生き抜こうとするアフリカの子供たちの「生」に比べてみると、たぶんもうどうしようもなく「ぬるい生」なのだ。



だから、どうせ同じ「幻」に向かい合うなら、自分の「生」の眠った部分をたたき起こして、火をつけてくれるような、強烈なギラギラした光を放つ「幻」のほうに目を向けるべきだ。


あなたの隣の、同じように「ぬるい生」を生きる人と比べたって、ただじっとりと不快なだけで、
得られるものなど何もない。

 

私は今、もしそのような一日1ドル生活のアフリカの子供たちと向かい合ったなら、彼らの目を
正面からまともにみられないような気がして、しかたがない。


自らの気持ちのぬるさが、その瞳に写りこむような気がするから。



自分が「かわいそうだ、ツキがない」などといったぬるいセリフは、これからは、めったなことでは
言わないほうがよい。


遠い世界で、今日一日を必死に生き抜く人たちに、軽蔑されてしまうぞ。

 



本当に必死で考えた転職・就職活動かを、自らに問う。


中高年の転職・就職、あるいは再就職活動の体験談などを読んでいると、「何十社に履歴書を送ったものの、ことごとく断られ…」「面接でいろいろとアピールしたものの、やはり中高年であることがネックらしく…」などといった苦労話を、よく見かける。


事実として、中高年の転職・就職活動が若い求職者に比べて不利な面があることは、間違いないだろう。

しかし、上記のような体験談にひんぱんにでてくる修飾語「何十社にも」「いろいろと」の中身を、一度よく見つめてなおしてみる必要もありそうだ。

このようにお手軽な一言で自分の苦労をまとめあげてしまう心理の裏に、本当にそれほどの情熱とエネルギーを求職活動に注ぎ込んでいただろうか、という自らの検証が、おろそかになっている面があるのではないだろうか。


ここに、「何十社にも履歴書を送って、面接にこぎつけたのは二社だった。面接ではいろいろとアピールにつとめたが、最終選考には至らなかった」という求職者が、仮にいたとする。

では、その履歴書を送った「何十社」の社名をきちんと書き出せるだろうか。

そして、なぜその会社に応募し、どのような履歴書を書いて、そのポジションに自身が適任である旨をどのようにアピールしようとしたのか、第三者に細かく説明できる程度に、きちんと思い出せるだろうか。

「面接でいろいろとアピール」したならば、それぞれの会社の面接で何をどのようにアピールしたのか、はじめて話を聞く人に対しても、きちんと説明することができるだろうか。


私が以前勤めていた会社で面接する側にいたときは、すべてワープロで書いて印を押して送ってきた中高年求職者の履歴書を、何通も目にした。

職務経歴書はワープロでよいとしても、履歴書は自筆で書くべきものであることは、ちょっとした指南書にも書いてある、ごく当然のことだと思う。

字の中にあらわれる人柄をかいまみて見たい、という欲求も、面接する側は、たいてい有しているものだ。
ワープロで書いてハンコを押した履歴書をそれこそ「何十社」に郵送することは、物理的にはより楽な方向だろう。

また本人としてはそれで、一生懸命に就職活動をやりました、という気分になるものかもしれない。


しかし、そういうひとつひとつが「薄い」活動を束ねて「何十社にも」と表現して済ませてしまう姿勢からは、自らの求職活動を「必ず実らせてみせる」という必死の思いが、個々の面接者にはなんら伝わってこない。

このことは、求職する側として、おぼえておいてよいことのひとつだと思う。

求職活動や面接の場において、「いろいろと」「たくさん」「何十社も」などと自分の活動を形容している自身に気づいたら、その形容は真に具体的な中身を伴った求職活動なのかを、よく自問してみるとよいだろう。

要するに、そういった言葉を隠れミノにして、密度の薄い求職活動、必死さのないぺラッとした姿勢を、さも中身があるように自分自身で思い込もうとしているだけではないのか?ということを、再点検してみることだ。

もし思い当たるフシがあるなら、おそらくそれが、あなたの求職活動がなかなかうまくいかない理由なのではないだろうか。


さて、最後に、個人的に愛読している、作家である森 博嗣氏のウェブサイト「MORILOG ACADEMY」に、この「いろいろ」という言い方について的確に評している部分があるので、以下にその一部を、引用させていただく。

…「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。
学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。…(中略)…「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。

…(中略)…「いろいろ考えてはいるんですけどね」と言い訳する人には、その「いろいろ考えたものを見せてくれ」と頼む。
ところが、たいていは、せいぜいあっても1つしか案がない。1つの案しかないのに「いろいろ」なんて言うなよ、と思う。 …(中略)…多くの人が言う「考えた」というのは、「考えようとした」のことらしい。同様に「悩んだ」も「悩もうとした」である。
 (引用ここまで、MORILOG ACADEMY 2007年12月15日 【HR】 本当に考えたの?より)


いかがだろうか。

私はこの話を読んで、自分がかつての会社で、企画営業マンとして働いていた時のことを思い出した。

プレゼンの時などに、クライアントに提案して通してしまいたい案が、一案しか思いつかない。

そのようなときに、明らかに通りそうもない別案をもうひとつセットにして持参し、クライアントの前では「『いろいろと』考えました結果、本日は最終的にこの二案に絞り込んでご提案したく思います。」などと、やっていたわけだ。

そのときのクライアントが、森氏のようなタイプの方でなくてほんとにラッキーだったと、今となっては自分のいい加減さに、ただ赤面するだけであるが。

「何十社も」は、実のところは「ほんの五、六社」にすぎなかった。
「いろいろアピールして」は、実のところ三つほど、自分で長所と思う点を述べたに過ぎなかった。


話を聞く面接者は、言葉の裏に隠れたあなたの求職への「必死さ」を、なぜかしら敏感に見抜くもの。

安易に薄いコトバを使うことで、あなた自身の求職にささげている日々の「濃さ」を、薄めてしまわないようにしたいものだ。



中高年の転職、決して「運も実力のうち」ではない。


優に十社を超え履歴書を送るような転職活動のさなか、ようやく一社で面接にこぎつけるも、残念ながら不採用となった。

魂をこめて書いた履歴書が、あまり読まれた跡もないまま送り返されてきた。

最終面接で緊張してしまい、うまく自分をアピールできないまま、どうやら他の候補者に内定をさらわれたらしい。


このようなとき、「今回は運がなかった」といって自分を慰めたり、あるいは身近な誰かに慰められたりすることがある。

また逆に、たまたま欠員補充の機会にめぐりあわせ、トントン拍子に再就職が決まったりしたときなどは、「運も実力のうちだから」と言って喜んだりもする。


「運」という単語を辞書でいくつか見てみると、「人知でははかりしれない、身の上の成り行き」とか「めぐりあわせ。幸運」などと、定義されている。

いずれにしても、「人的なコントロールの範囲を超えた」現象、ということになっているようだ。


一方で「実力」とは、これも辞書の定義では、「実際に持っている力量(仕事をするために必要な、知識・経験・資格など)」となっている。

ということは、その人の「実力」とは、「現実にその人に備わっている、なんらかの力」なのだから、その人の支配下にある力であり、その人の意思によってコントロールできるパワーであるはずだ。


だから、転職・就職活動がうまくいった折に「運も実力のうち」などと言うのは、「そもそもコントロールできないものを、コントロールできる」と言っているに等しい。

理屈にあわないし、ある意味で傲慢な物言いでもある。


逆に失敗したときに「運がなかったから」というのも、不正確な表現だ。

採用する側が、何人かの候補者の中からサイコロをふって決めているのだったら、あるいは「運がなかった」と言ってもいいかもしれないが、まともな会社ならば、通常そんなことはあり得ない。

採用されなかった理由は、採用活動の中止を例外として考えると、「あなたの実力が先方の要求水準に達していないか」あるいは、「実力面で問題ないにせよ、その会社のニーズにはあわないと判断された」からの、いずれかであるはずだ。


前者の場合は、あなたは次は同じ轍を踏まぬよう、自らの「実力」のレベルアップに努めるべきだし(あるいは、今の自分の実力にあったレベルの会社まで選択肢を狭めるという手もある)、また後者の場合は、あなたの転職活動にはなんら問題がなく、単にその会社とあなたの「相性」が悪かったにすぎない。

だから「運」などという、まったく関係のない言葉を持ち出す必要はない。


正しくは、言葉の使い方が間違っているのかもしれない。

「今回は、あの会社と相性があった(あるいは、相性が悪かった)」というなら、状況の説明としては問題ないだろう。

「運」ではなく、「相性」というならわかる。
ちなみに「相性」とは、「互いの性格・調子などの合い方」のことだそうだ。


細かい話をしている…と、思われるだろうか。


しかし、現実のビジネスの世界では、説明のつかないことが生じたときに、原因の分析など自分の頭を使って考えることを止めてしまって、「運」などというあいまいなフレーズを持ち出し一件落着…としているケースがあまりに多い。

原因や理由をちゃんと説明できないことについて対策を講じようとしても、基本的にうまくいくわけがないのだ。それこそ「運まかせの転職・就職活動」になってしまう。


あなたの場合、仮に「A社における転職面接が失敗した」ことが、出発点になるとしよう。
次にB社を受ける前に、その理由を自分なりにきちんと説明できるようにしておくことだ。

誰に?家族や誰か他の人、そして自分自身にだ。
何のために?もちろん、次のチャンスで成功を得るためにだ。

上でも述べたように、「自分の実力不足やミスで失敗した」のか、それとも「自分の能力面では先方の要求を満たしているはずだ。相性が悪かったとしか考えられない」となるのかについて、自分なりにはっきりと、ひとつの結論を出しておくことである。


順番としては、それをやった後にはじめて、対策がくるはずだ。
自分があきらかに先方の要求水準に達せずに不採用となったと思い当たった場合は、あなたにも多少、反省の余地がでてくるかもしれない。

自分の実力を超える水準の会社なり職種なりに応募した段階で、あなたの判断ミスが起きているからだ。その失敗を、次に活かすようにしなくてはならない。

転職候補先を自分のレベルにあった会社まで落としてチョイスすることも、あるいは考えなくてはならないかもしれない。


しかし、「この応募先とは相性が悪かったのだ」という結論ならば、必要なのは「気持ちの切り替え」だ。

この場合、反省は不要。なんら自分を責める必要はないのだ。

自分の転職先・再就職先としてよいのではないかと事前に自分なりに判断したうえで応募しているのだから、これは仕方のないことなのだ。


たいていの場合、応募先の会社の情報は求人広告や人材会社からの間接的な情報でとるしか術はない。

事前にその会社との相性の良し悪しを見抜くことなどは、まず不可能だからだ(もっとも、危険そうな会社を避ける手立てはある。「事を起こす前に、よく調べたか。」「企業の求人広告、真の意図を読みにいく。」のエントリーをご参照のこと)。

中高年の転職や再就職でうまくいかなかった場合に、応募者側に非があるかのような説明あるいは説教すら行う人材紹介会社などがあるが、少なくともこのようなケースでは、その対応は間違っている。


だいたい、中高年は転職・就職活動においてスタートからしていろいろな面で不利を受けており、ただでさえ気持ちが萎縮しがちなものなのだ。

サポートすべき立場の人材会社が、傷口に塩を塗るようなことを言ってどうするのだ、とも思う。


確かにあなたの実力不足やミスの場合もあるかもしれないが、あなたにひとかけらの責任も無い場合だってまた同様にあることを、少なくともあなた自身は、心のなかで確信を持っておくべきだ。

そのようなときにまで、これまでそれなりの社会経験を積んできた中高年たるあなたが、理不尽にも反省を強いられる必要などまったくない、と私は思う。


結論として。

転職・就職活動における成功と失敗・採用と不採用の結果は、「運」とはなんの関係もないことである。

あなたに必要なのは、なぜそういう結果になったかという分析をして、次に活かすために自分なりの結論を引き出すこと、そして地道に対策を講じることだ。


いつまでも「運」がどうこう…などと言っていると、そのうちに高額の開運印鑑セットなどを売りつけられたり、わけのわからない新興宗教の勧誘などにつけこまれるのが、オチですよ(笑)。





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