現実を、「達観」せよ。
中高年であるあなたの転職・就職活動時の採用・不採用は、必ずしも「あなたの価値」を考慮したうえで、決められているわけではない。
中高年の就職・再就職・転職事情の厳しさは、いまさらここで言わずとも、すでにあなたが、よくご存知の通りである。
北海道や東北・沖縄などの、就職率が「全国ワースト3」といわれる地方においての状況は、とりわけ厳しい。
それらの地域では、20歳台の有効求人倍率を仮に1.5倍とすると、40歳台後半では0.2倍から0.5倍くらいで推移しているのが実態であり、20歳代の若者の就職活動と同じ言葉でくくって話すのがためらわれるくらいである。
人口の多い都心部なぞはまだマシなほうで、地方では、それくらい中高年を求める企業の絶対数が、極端なまでに少ないのだ。
中高年のあなたが普通に就職活動をしたとしても、求める仕事を得られる確率は、そもそもの始めからして、限りなく低い。
いくら一生懸命、履歴書や職務経歴書を書いて送ったとしても、通常の会社の場合は、年齢欄をチラとみられただけで、履歴書は机の引き出しにしまわれてしまい、再びチラとも見られることはない。
残念ながら、これが、あなたが何時間も費やして書いた履歴書・職務経歴書の扱われ方の現実である。
だからまずあなたは、そもそもからして、とんでもなく厳しい条件の中で闘っていることをよく認識すべきだ。
あなたのキャリアや仕事能力や人間性、社交性などとは全くお門違いのところで、すなわち「あなた個人の本質」に関わらない世界で、採用合否が判断されている可能性がかなり高いということを、よくよくココロに刻んでおく必要がある。
誰かに文句を言ったところで、はじまらない。
それよりは、この現実を直視するところからスタートするほうが、より的確に次の手を打てるだろう。
現実がそうである以上、あなたにもある意味の「達観」が求められるということである。
決して、自分を責めるな。
中高年の転職・就職活動にとって、厳しい現実が長期化すると、どうしても最初の意気込んだ気持ちも萎え、ややもすると投げやりにな気持ちになってしまうことが、多くなってくる。
しかし、この先の長い人生を見すえてほしい。
まさにここが、あなたの踏ん張りどころである。
完全にあきらめてしまい、就職活動を投げ出して引きこもってしまったり、酒やギャンブルなどの現実逃避に走ったりして、自分自身をすさんだ毎日に貶(おとし)めてしまってはならない。
踏ん張るために必要なのは、まずは十分な休息と栄養のバランス、そして生活に一定の規則正しいリズムをとりいれることである。
疲れたら、まずは、十分な睡眠時間をとったうえで、軽い運動をしたり、適度にリラックスすることだ。
そして、あなたに出来る範囲で、時々は、意識的に気分転換をはかることだ。
夜は早めに休み、早起きして、きちんと朝食をとる。
ちなみに、大事な考え事や計画は、朝にする習慣をつけるようにしよう。
頭の活動は、朝は夜の三倍くらい、効率がアップするといわれている。
休息も、とり方に変化をつけて、日々の生活の中に組み込んでいこう。
たとえば、日帰り温泉に、ゆったりつかってみる。
家族と散歩をしながら、会話をする。
テレビの古い名作映画を、じっくりとみてみる。
外で、好きな歌を何曲も、ひとり声に出し歌ってみる。
無料の野外コンサートに、でかけてみる。
酒を飲むのは、よほどうれしいことやおめでたいことがあったときだけにしておこう。
さほどのお金をかけずに、リラックスする方法は、いくらでもある。
まずは、自分自身を適度に甘やかし、ねぎらってあげること、自分自身をいたわる気持ちをもつことだ。
あなたの外界をとりまく就職事情が厳しいからといって、あなたまで自分自身につらくあたる必要性は、どこにもないのだ。
あなた自身こそが、唯一あなたを裏切らないことを確信できる無二の存在ではないか。
自分の内面をいたわり、自分をはげましながら、少しでも前に進むための努力を、続けていくことだ。
金銭的な不安を時間をかけて解決する方法は、実は、世の中には意外に色々とあるものである。
あせって自分を責めることで、エネルギーを無駄に費してはならない。
明けない夜はない。そして、夜明け前が一番暗いのだ。
肩の力を抜いて、「いつか、なんとかなる」という「達観」と「楽観」をひそかにココロの内にもったまま、前を向いて進む気持ちを忘れないようにしよう。
自分を励まし、道を照らす「言葉」を持ちたい。
安易に他人のアドバイスに頼るのも、どうかとは思う。
また、心のスキを下手なかたちで外に見せると、新興宗教などの勧誘や悪質な商法のカモに
されて、とんでもないめに会う危険性だってある、御時世だ。
しかしまた、人はおのれの信念だけを拠り所に、人生を生きられるものではない。
人はそれほどまでに、強くはできていない。残念ながら。
たまたま、人生の後半に差し掛かった今、新たに生活の安定を得るための職を得るということが、我々の人生のメインテーマのひとつになってしまっているわけであるが。
そういう今、心がフワフワと所在なく漂っているような気がしている方は、今の自分が置かれている状況や今の自分の思いを照らす、道あかりとなるような「言葉」を、自分の手元に置いて、時々は
読むともなく読み返してみるのがよいように思う。
別段、権威者や宗教家、有名人の言葉でなくたってもちろんよく、誰の言葉だってよい。
自分で作ってもよいのだが、世界とのつながりを感じるためにも、できれば自分以外の誰かの
言葉のほうがよいだろう。
文章でなくとも、詩でもフレーズでも熟語でも、要するにあなたの心のうちに深く届いたメッセージを、身近に置いて、しょっちゅう気にかけてあげることだ。
それらの言葉を、身近ですぐ手の届くところに置いておくと良い。
本であればいつも使う机の前の書棚の目につくところに置き、ノートに書きとめたなら、そのノートをいつでも広げられるようにしておくとよい。
インターネットでも、時おり素晴らしい「明日を生き抜くための言葉」に出会うこともある。
あなたの心の奥に届いたフレーズをノートに書き写し時おり眺めるのも、また励まされるものだ。
最近たまたま見つけたこの記事も、読み返すたびに力がわいてくるような気がする。
引用しておこう。
打ち負かされる事自体は、何も恥じるべき事ではない (Gigazine 2006年8月16日付記事)
自分の心の琴線に触れ、なにか奥深くに届く「言葉」がいくつかでもあると、日々のさほど
変わりばえがしない生活を送るなか、わずかながらも、心に安定感がでてくるように思えるものだ。
自分が迷ったときに、その言葉が自分の必要な場所に戻ってくるための、目印になるような
気がしてくるのだろう。
私見だが、それらの言葉は「道そのものではない」ので、全面的に自分を放棄して、その世界に没入してしまってはならないように思う。
人生において無くてはならないものにすることは、むしろ避けるべきだ。
あくまでそれらの「言葉」は、触媒であり、自分が忘れ見失っていた何かを呼び戻すための
きっかけであり、スパイスであるべきだ、と思う。
手を伸ばせばその言葉に触れられることで、自分が世界のどこかとつながっているような感覚を、かすかに感じさせてくれる気がする程度。
それくらいで、ちょうどよいように思う。
最後に、私が手元においている一冊、そしてその中に収められている中からひとつだけ、
引用して紹介しておこう。
「私にとっての大切な言葉」を、私が持っている証として。
”人間は誰一人として理想を生きてはいない。
理想を持ちながら、現実は妥協でいきている。
我々の生きる現実、対面する真実は、理想にはほど遠く、善悪の区別にも
歯切れが悪く、どっちつかずである。
しかしむしろその曖昧さと混沌に耐えることが、人間の誠実さと強さと
いうものなのである。”
(「孤独でも生きられる」曽野綾子 著 イースト・プレス)
同じ「幻」と向き合うなら、光が強烈なほうを選べ。
よく、我々は、分かったような顔をして、「上には上がいる」「下には下がいる」などと言う。
世界で、一日1ドル以下の「絶対的貧困」の中で暮らす人達は12億人以上おり、66億人に達する世界の人口の、およそ2割を占めるという。
特にサハラ以南のアフリカ地域では、5割近い人が、一日1ドル以下の生活を強いられているそうだ。
以前、一日1ドルで、家族5人ぐらいで暮らす家庭を支える少女の海外ドキュメンタリーをテレビで見たが、実にひどい暮らしようだった。
基本的に、食事は市場から出てくる廃棄品の食糧を主食に、炎天下一日中歩き回ってもごくわずかしか稼げないような、日銭稼ぎに費やす。
帰ってくると、今度は疲れた体で、幼い弟や妹の食事のために、いつ止まるかもわからないガスを気にかけつつ、料理の準備をする。
週に一、二度、ほんの数時間だけ出席できて、友達とも会える学校の授業が、その少女の人生における唯一の楽しみ。
そんなような、内容だった。
1ドルというと、単純レートで100円くらいだ。
物価水準の違いはあるだろうが、おおざっぱな感覚でいうと、「一家五人、一日4、5百円で暮らせ」と、言われているようなものではないだろうか。
この日本でそのようなテレビ番組を見て、目をうるませながら「かわいそうな子供達」と言っていられる時点で、すでに自分がいかに恵まれ、ありがたい環境にいる存在かということが、わかる。
一日1ドル以下の生活をしている人たちは、人の生活をのぞき見る余裕もなく、自分の明日を生き抜くだけで、その全神経を使い果たしているはずだから。
むろん、世界には全く逆の立場の、いわゆる大富豪たちもたくさんいる。
経済的に、上は青天井、下は底抜けというやつで、我々も結局は、その間のどこかに所属していることになる。
たとえばリストラされて、失業したりすると、我々は今の自分を、不幸だと感じる。
その時の我々の目線は、遠いアフリカの貧困に苦しむ人達ではなく、我々のすぐ間近にいる、毎朝ネクタイを締めて会社に向かう人たちを見ているはずだ。
しかし、目線を世界に転じてみると、我々はしょせん、世界のGNPの8割を消費する超大金持ちの2割の人々と、明日一日を生きるのも困難なこれら最下層の経済状況の人々との間を、目に見えないくらいほんのわずかに上がったり下がったりしてながら、漂っているだけの存在にすぎない。
私やあなたが、今のおかれた状況を不幸だ、恵まれていない、と感じることはもちろんあるだろうし、幸福や不幸のモノサシも、人それぞれなのはわかる。
しかし身の回りの手近な人たちと比べて、喜んだりがっかりしたりしているのは、やはりまだ徹底的に追い込まれていないからこそ、そのような気持ちの余裕があるということなのだ。
このような書き方は自分でもはっきりエゴだと思うし、説教くさいとも思うが、あえてそう書きたい。
今、この文章は、半分は自分自身に向けて書いているような気がするのだ。
我々は人生のつらい瞬間に、自分よりはるかに過酷な境遇にいる人がいることに思いをはせ、
自分がそれより恵まれた人生にあることを、感謝するべきだ。
深くそう思うことで、今の自分がとらわれている幸福だの不幸だのといった概念が、なんのよりどころもない、他との比較でかろうじて成り立っている、幻(まぼろし)のようなものに過ぎないことがわかる。
身近な隣の住人と比べようと、アフリカの子供と比べようと、しょせんはどちらも「幻」と比べながら、喜んだり悲しんだりしているにすぎないのだ。
だから、「幻はしょせんは幻に過ぎない」と自分の心の奥底でしっかりと冷めた気持ちで、自覚していることこそが、明日を生き抜くために大事なのではないかと思う。
仮に今、求職中のあなたが、面接をパスして、再就職できたとする。
あなたは、その瞬間は、嬉しいだろう。
しかしそれすら、ひとときの移ろう「幻」にすぎないのだ。
あなたが数十年前の若きある日に、「内定を出すよ、おめでとう」と、会社から言われた時のように。
逆に今、あなたが失業して、精神的な苦しさを内面で感じているのなら、そんな幻のため心身を
すり減らす自分なぞは、まだまだ余裕があるのだ、くらいに考えていたほうがよい。
それは、今日という一日を必死の思いで生き抜こうとするアフリカの子供たちの「生」に比べてみると、たぶんもうどうしようもなく「ぬるい生」なのだ。
だから、どうせ同じ「幻」に向かい合うなら、自分の「生」の眠った部分をたたき起こして、火をつけてくれるような、強烈なギラギラした光を放つ「幻」のほうに目を向けるべきだ。
あなたの隣の、同じように「ぬるい生」を生きる人と比べたって、ただじっとりと不快なだけで、得られるものなど何もない。
私は今、もしそのような一日1ドル生活のアフリカの子供たちと向かい合ったなら、彼らの目を
正面からまともにみられないような気がして、しかたがない。
自らの気持ちのぬるさが、その瞳に写りこむような気がするから。
自分が「かわいそうだ、ツキがない」などといったぬるいセリフは、これからは、めったなことでは言わないほうがよい。
遠い世界で、今日一日を必死に生き抜く人たちに、軽蔑されてしまうぞ。
本当に必死で考えた転職・就職活動かを、自らに問う。
中高年の転職・就職、あるいは再就職活動の体験談などを読んでいると、「何十社に履歴書を送ったものの、ことごとく断られ…」「面接でいろいろとアピールしたものの、やはり中高年であることがネックらしく…」などといった苦労話を、よく見かける。
事実として、中高年の転職・就職活動が若い求職者に比べて不利な面があることは、間違いないだろう。
しかし、上記のような体験談にひんぱんにでてくる修飾語「何十社にも」「いろいろと」の中身を、一度よく見つめてなおしてみる必要もありそうだ。
このようにお手軽な一言で自分の苦労をまとめあげてしまう心理の裏に、本当にそれほどの情熱とエネルギーを求職活動に注ぎ込んでいただろうか、という自らの検証が、おろそかになっている面があるのではないだろうか。
ここに、「何十社にも履歴書を送って、面接にこぎつけたのは二社だった。
面接ではいろいろとアピールにつとめたが、最終選考には至らなかった」という求職者が、仮にいたとする。
では、その履歴書を送った「何十社」の社名をきちんと書き出せるだろうか。
そして、なぜその会社に応募し、どのような履歴書を書いて、そのポジションに自身が適任である旨をどのようにアピールしようとしたのか、第三者に細かく説明できる程度に、きちんと思い出せるだろうか。
「面接でいろいろとアピール」したならば、それぞれの会社の面接で何をどのようにアピールしたのか、はじめて話を聞く人に対してもきちんと説明することができるだろうか。
私が以前勤めていた会社で面接する側にいたときは、すべてワープロで書いて印を押して送ってきた中高年求職者の履歴書を、何通も目にした。
職務経歴書はワープロでよいとしても、履歴書は自筆で書くべきものであることは、ちょっとした指南書にも書いてある、ごく当然のことだと思う。
字の中にあらわれる人柄をかいまみて見たい、という欲求も、面接する側は、たいてい有しているものだ。
ワープロで書いてハンコを押した履歴書をそれこそ「何十社」に郵送することは、物理的にはより楽な方向だろう。
また本人としてはそれで、一生懸命に就職活動をやりました、という気分になるものかもしれない。
しかし、そういうひとつひとつが「薄い」活動を束ねて「何十社にも」と表現して済ませてしまう姿勢からは、自らの求職活動を「必ず実らせてみせる」という必死の思いが、個々の面接官にはなんら伝わってこない。
このことは、求職する側として、おぼえておいてよいことのひとつだと思う。
求職活動や面接の場において、「いろいろと」「たくさん」「何十社も」などと自分の活動を形容している自身に気づいたら、その形容は真に具体的な中身を伴った求職活動なのかを、よく自問してみるとよいだろう。
要するに、そういった言葉を隠れミノにして、密度の薄い求職活動、必死さのないぺラッとした姿勢を、さも中身があるように自分自身で思い込もうとしているだけではないのか?ということを、再点検してみることだ。
もし思い当たるフシがあるなら、おそらくそれが、あなたの求職活動がなかなかうまくいかない理由のひとつなのではないだろうか。
さて最後に、個人的に愛読していた、作家である森 博嗣氏のウェブサイト「MORILOG ACADEMY(同サイトはすでに更新終了、残念ながら!)」に、この「いろいろ」という言い方について的確に評している部分があったので、以下にその一部を、引用させていただく。
…「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。
学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。…(中略)…「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。
…(中略)…「いろいろ考えてはいるんですけどね」と言い訳する人には、その「いろいろ考えたものを見せてくれ」と頼む。
ところが、たいていは、せいぜいあっても1つしか案がない。1つの案しかないのに「いろいろ」なんて言うなよ、と思う。 …(中略)…多くの人が言う「考えた」というのは、「考えようとした」のことらしい。同様に「悩んだ」も「悩もうとした」である。
(引用ここまで、MORILOG ACADEMY 2007年12月15日 【HR】 本当に考えたの?より)
いかがだろうか。
私はこの話を読んで、自分がかつて、企画営業マンとして働いていた時のことを思い出した。
プレゼンの時などに、クライアントに提案して通してしまいたい案が、一案しか思いつかない。
そのようなときに、明らかに通りそうもない別案をもうひとつセットにして持参し、クライアントの前では「『いろいろと』考えました結果、本日は最終的にこの二案に絞り込んでご提案したく思います。」などと、やっていたわけだ。
そのときのクライアントが、森氏のようなタイプの方でなくてほんとにラッキーだったと、今となっては自分のいい加減さに、ただ赤面するだけであるが。
「何十社も」は、実のところは「ほんの五、六社」にすぎなかった。
「いろいろアピールして」は、実のところ三つほど、自分で長所と思う点を述べたに過ぎなかった。
話を聞く面接者は、言葉の裏に隠れたあなたの求職への「必死さ」を、なぜかしら敏感に見抜くもの。
安易に薄いコトバを使うことで、あなた自身の求職にささげている日々の「濃さ」を、薄めてしまわないようにしたいものだ。
中高年の転職、決して「運も実力のうち」ではない。
優に十社を超え履歴書を送るような転職活動のさなか、ようやく一社で面接にこぎつけるも、残念ながら不採用となった。
魂をこめて書いた履歴書が、あまり読まれた跡もないまま送り返されてきた。
最終面接で緊張してしまい、うまく自分をアピールできないまま、どうやら他の候補者に内定をさらわれたらしい。
このようなとき、「今回は運がなかった」といって自分を慰めたり、あるいは身近な誰かに慰められたりすることがある。
また逆に、たまたま欠員補充の機会にめぐりあわせ、トントン拍子に再就職が決まったりしたときなどは、「運も実力のうちだから」と言って喜んだりもする。
「運」という単語を辞書でいくつか見てみると、「人知でははかりしれない、身の上の成り行き」とか「めぐりあわせ。幸運」などと、定義されている。
いずれにしても「運」とは、「人的なコントロールの範囲を超えた」現象ということになっているようだ。
一方で「実力」とは、これも辞書の定義では、「実際に持っている力量(仕事をするために必要な、知識・経験・資格など)」となっている。
ということは、その人の「実力」とは、「現実にその人に備わっている、なんらかの力」なのだから、その人の支配下にある力であり、その人の意思によってコントロールできるパワーであるはずだ。
だから、転職・就職活動がうまくいった折に「運も実力のうち」などと言うのは、「そもそもコントロールできないものを、コントロールできる」と言っているに等しい。
理屈にあわないし、ある意味で傲慢な物言いでもある。
逆に失敗したときに「運がなかったから」というのも、不正確な表現だ。
採用する側が、何人かの候補者の中からサイコロをふって決めているのだったら、あるいは「運がなかった」と言ってもいいかもしれないが、まともな会社ならば、通常そんなことはあり得ない。
採用されなかった理由は、採用活動の中止を例外として考えると、「あなたの実力が先方の要求水準に達していないか」あるいは、「実力面で問題ないにせよ、その会社のニーズにはあわないと判断された」からのいずれかであるはずだ。
前者の場合は、あなたは次は同じ轍を踏まぬよう、自らの「実力」のレベルアップに努めるべきだし(あるいは、今の自分の実力にあったレベルの会社まで選択肢を狭めるという手もある)、また後者の場合は、あなたの転職活動にはなんら問題がなく、単にその会社とあなたの「相性」が悪かったにすぎない。
だから「運」などという、まったく関係のない言葉を持ち出す必要はない。
正しくは、言葉の使い方が間違っているのかもしれない。
「今回は、あの会社と相性があった(あるいは、相性が悪かった)」というなら、状況の説明としては問題ないだろう。
「運」ではなく、「相性」というならわかる。
ちなみに「相性」とは、「互いの性格・調子などの合い方」のことだそうだ。
細かい話をしている…と、思われるだろうか。
しかし、現実のビジネスの世界では、説明のつかないことが生じたときに、原因の分析など自分の頭を使って考えることを止めてしまって、「運」などというあいまいなフレーズを持ち出し一件落着…としているケースがあまりに多い。
原因や理由をちゃんと説明できないことについて対策を講じようとしても、基本的にうまくいくわけがないのだ。それこそ「運まかせの転職・就職活動」になってしまう。
あなたの場合、仮に「A社における転職面接が失敗した」ことが、出発点になるとしよう。
次にB社を受ける前に、その理由を自分なりにきちんと説明できるようにしておくことだ。
誰に?家族や誰か他の人、そして自分自身にだ。
何のために?もちろん、次のチャンスで成功を得るためにだ。
上でも述べたように、「自分の実力不足やミスで失敗した」のか、それとも「自分の能力面では先方の要求を満たしているはずだ。相性が悪かったとしか考えられない」となるのかについて、自分なりにはっきりと、ひとつの結論を出しておくことである。
順番としては、それをやった後にはじめて、「対策」がくるはずだ。
自分があきらかに先方の要求水準に達せずに不採用となったと思い当たった場合は、あなたにも多少、反省の余地がでてくるかもしれない。
自分の実力を超える水準の会社なり職種なりに応募した段階で、あなたの判断ミスが起きているからだ。
その失敗を、次に活かすようにしなくてはならない。
転職候補先を自分のレベルにあった会社まで落としてチョイスすることも、あるいは考えなくてはならないかもしれない。
しかし、「この応募先とは相性が悪かったのだ」という結論ならば、必要なのは「気持ちの切り替え」だ。
この場合、反省は不要。なんら自分を責める必要はないのだ。
自分の転職先・再就職先としてよいのではないかと事前に自分なりに判断したうえで応募しているのだから、これは仕方のないことなのだ。
たいていの場合、応募先の会社の情報は求人広告や人材会社からの間接的な情報でとるしか術はない。
事前にその会社との相性の良し悪しを見抜くことなどは、まず不可能だからだ(もっとも、危険そうな会社を避ける手立てはある。「事を起こす前に、よく調べたか。」「企業の求人広告、真の意図を読みにいく。」のエントリーをご参照のこと)。
中高年の転職や再就職でうまくいかなかった場合に、応募者側に非があるかのような説明あるいは説教すら行う人材紹介会社などがあるが、少なくともこのようなケースでは、その対応は間違っている。
だいたい、中高年は転職・就職活動においてスタートからしていろいろな面で不利を受けており、ただでさえ気持ちが萎縮しがちなものなのだ。
サポートすべき立場の人材会社が、傷口に塩を塗るようなことを言ってどうするのだ、とも思う。
確かにあなたの実力不足やミスの場合もあるかもしれないが、あなたにひとかけらの責任も無い場合だってまた同様にあることを、少なくともあなた自身は、心のなかで確信を持っておくべきだ。
そのようなときにまで、これまでそれなりの社会経験を積んできた中高年たるあなたが、理不尽にも反省を強いられる必要などまったくない、と私は思う。
結論として。
転職・就職活動における成功と失敗・採用と不採用の結果は、「運」とはなんの関係もないことである。
あなたに必要なのは、なぜそういう結果になったかという分析をして、次に活かすために自分なりの結論を引き出すこと、そして地道に対策を講じることだ。
いつまでも「運」がどうこう…などと言っていると、そのうちに高額の開運印鑑セットなどを売りつけられたり、わけのわからない新興宗教の勧誘などにつけこまれるのが、オチですよ(笑)。
カオス(混沌)に生きる、自分自身の気持ちを慣らす。
成功や失敗の理由を断定的に結論として話す人は、世の中にはゴマンといる。
「これが勝因だった」「これが敗因となった」と。
就職活動においても、またしかり。
転職・再就職活動がなかなか思うようにいかないあなたのもとにも、忠告やアドバイス、指導の名目で、これまで幾度となく、就職支援会社などからさまざまなメッセージが届いたことだろう。
しかし、ここはちょっと考えてみたいところでもある。
それではその「勝因なるもの」がなければ、面接は失敗していたのだろうか?
その「敗因なるもの」が起こらないようにしていれば、転職は成功したのだろうか?
人はみな、自分が裁断者の立場にあるがごとく、第三者の身に起きているさまざまなことを「断定的」「確定的」に話す。
しかし言うまでもないことだが、話し手がいかに断定的な表現を使おうとも、その文体の隅々にまでいかに自信満々な態度があふれていようとも、しょせんは「ひとつの立場」「ひとつの見解」「ひとつの意見」に過ぎない。
世のオピニオンリーダーによる寄稿であろうとも、掲示板に匿名で投じられた一コメントであろうとも、その点において変わることはない。
私がいま書いているこの文章とて、もちろん例外ではない。
どれだけ書き手である私が自信と確信を持って書いたとしても、受け手のあなたからすれば、単なる一つの私的見解にすぎないわけだ。
誰かにとって貴重なメッセージを含んでいるかもしれないし、誰にとってもただのノイズにすぎないかもしれない。
転職活動でも面接でも、あなたがうまくいかなかった「本当の理由」なぞ、外から見ている人間がわかることは決してない。
ひょっとしたら、当事者のあなた自身でさえ、「あれだけいい雰囲気で最終面接までいったのに、なぜ不採用だったのだろう…」などといぶかったりして、不採用の理由が自分でもよくわからなかった(笑)ことが、おありじゃないですか。
たとえ何十年の経験を有する転職コンサルタントであろうとも、本当のところなど、わかるはずもないのだ。
これまでの経験則で「確からしい」という辺りを話しているだけなのだが、あやふやな物言いをしているとコンサルタント商売としてはなにかと差し障りもでてくるので(笑)、自信満々の断定調で話すことによって、聞き手のあなたのみならず語っている自分自身にさえも、それが真実と思い込ませているわけである。
「結果よければすべてよし」という方にとっては、こんなことは問題ではないかもしれない。
しかし、いまあなたがなかなか結果がでない状態にあるならば、あなたの転職活動がうまくいかない理由を、あなた以外の誰かが明快に解き明かすことなど本当にできるのかについて考えてみるのも、あながち無意味ではないと思う。
転職活動や再就職支援のホームページをいろいろと見て回るとわかるとおり、「あなたの転職活動がうまくいかない理由はこうだ」「こうすればうまくいく。キャリア×十年の就職カウンセラーがアドバイスします」という風に、あなたと一度もあったことのない、あなたの現在の状況など知る由もない「転職コンサルタント」を称する人たちが、そこかしこで自信満々に語っているのが目につく。
「これまで××名の求職者を見てきた経験から~」と、彼らは一様にその経験をアピールする。その力強い断定的な物言いに、これまで何度も失敗しているあなたはつい「そうかな?そうすればうまくいくのかな?」と、思うことだろう。
しかし、あなたもサラリーマンの経験がおありならわかるはずだ。
会社組織というものの本質は、「カオス(Chaos、混沌)」だ。
営利追求という単一の目的を持ち一致団結して向かっているはずなのに、構成分子のいろいろな人間がそれぞれの場面でばらばらな動きをして、最終的に予測不可能とも言える結果をもたらすこともある。
あなたもかつては、そのカオスのまっただ中にいた。右へ振られ左へ流され、言いたいことはぐっと胸にしまい、時には真実にも目をつぶり、自分をささやかにほめたり、あるいは自身を情けなく思ったり、そして同僚に悪態をついたりしながら、なんとか自分なりにやってきたはずである。
この後幸いにもあなたの転職・再就職が決まったならば、またまた別のカオスがあなたを待ち受けている…というわけだ。
カオスのカオスたるゆえんは、誰がどこからみても全体の様子がよくわからないという、その無秩序さにある。「秩序」に詳しいと自称する人間が、「無秩序」について的確に分析できるわけではないのだ。
あなたの転職や再就職がうまくいくかは、外部からはしょせんはカオスの観察のようなもの、要するにその成否や先行きも含めて誰もよくわからない…ということである。
しかし、もし思い通りにいかなかったとき、物事がうまくいかなかったときの「あなたの心の持ちようをどうするか」については、完全にあなたの守備範囲だ。
それだけはあなた自身の手で、コントロールすることができる。
では、どうコントロールするか。
自分のなかの不安や恐怖を追い払おうとするのはなく、「感情」という器のなかにすべて一緒くたに放り込み、喜びや幸福感などの「快」の感情と同居させたままゆるやかに放置しておくのがいいように思う。
心のなかのカオスを認め、ごくありふれた当たり前のこととしてその状態に慣れていくようにすることだ。
「快」の感情を最優先させようとして、無理に何かしらの秩序を心の中に打ち立てようとがんばらないことだ。
人生のさまざまな側面のなかから、幸福とか成功といった「快」だけを単体で取り出し、自分の中の位置づけとしても突出させようとする行為自体が、そもそも不自然ともいえる。
もしそれができるなら、感情のなかの成分の特定ができ、その自在な抽出も可能ということになる。
そしてそこには、ある種の秩序ができていることになる。
しかし、それはどだい無理なことだ。
したがって、あなたの中に純度100%の不安はないはずだし、純度100%の苦しみというものもまた、ないはずなのだ。
逆に現在の悩みがすべて解決したとしたって、純度100%の喜びも達成感も、あなたのもとに訪れることはない。
感情に成分があるとしたら、成分の配合割合が瞬間ごと絶えず変化しながら、共有的に混じり合い、あなたの心のなかをふわふわと漂っているのだろう。
「純度100%の「快」の感情(すなわち、俗に言う『理想』だ)」を心のうちに求めることは、中年世代に入る頃ともなったなら、むしろ意識的に止めることだ。
あなたがたとえ転職に成功しても、おそらくはそれが手に入ることはない。
感情の成分配合が変わるだけ、そしてまた別の悩み・苦しみという成分が割合を変えて入ってくるだけで、それはいつまでも、終わりのないことだ。
「理想を持つな」とまでは言わないが、理想を持つとどうしても、現在と比較して判断しようとする心の動きがでてくることには、同意してもらえるだろう。
そうなると、そのギャップ・現実との落差に目がいってしまい、なんとかそれを解消しようという方向に、気持ちが動く。
何かに追い立てられている自分を感じる時が、一日の時間の多くを占めるようになってくる。
それがさらに高じると、現状を嫌い、憎み、やがてはその状況にある自分自身すら許せなくなって、自分にもつらくあたるようになる。
現状を超えて先を見すぎ、『理想』すなわち「100%の快」を一心に追い続けることは、実は精神衛生上もよくないわけだ。
現在の心のありようをそのまま受け入れて、不安と安心・喜びと悲しみがごちゃまぜになっている今の状態そのものに慣れること。
その状態に、自分自身を慣らしていく訓練をすること。
あなたがこれから転職なり再就職なりをして、会社組織というカオスにふたたび飛び込もうとしているならば、あなたのやっていることはつまり「あるカオスから別のカオスへの移動」ということになる。
今の自分が暮らしている日々だって、「日常」という名前のカオスである。
いずれにせよ我々は、カオスから逃れることはできない。
ならば、あなたがカオスをカオスであると認識して、それをごく自然に受け入れられる心構えを持つほうが、話が早い。
すべては不確実で混沌としていて、そのなかで我々は漠然とした不安感につつまれながらも、なんとか日々を送っている。
自分の思い通りにならないことを嘆くのではなく、今のこの状況もカオスの発現にすぎないと認めて、そのことをごく淡々と受け入れられるよう自分自身の感情を慣らしていくことだ。
「一寸先は闇」などとよく言うが、正しくは「一寸先も靄(モヤ)」じゃないかと、時々思う。
闇と光が漠と入り交じってほの明るいモヤ、一寸先もよく見えることのない状態が続く、視界がクリアに開けることなどない…というのが、我々の生きる日々の本当のところではないか。
だから「その状態が自分にとってごくナチュラルなもの、そのような不透明な日常の連続こそがごく普通の人生の有りよう」といった心持ちをつくることが、明日の一日を生き抜きやすい姿勢なのかな、と思う。
今この瞬間のカオスを愛することができるようになれば、人生がまばゆい輝きにつつまれる一瞬がこの先永遠にめぐってこないとしても、少なくとも薄ぼんやりとした光がいつも我々のそばには漂っているものと、信じている。
視界不良の雇用環境下、ひとりの中高年求職者として出来ること。
これを書いている本日は2009年8月末、第45回衆院選の前日となる。
当サイトは、ちょうど2年前のいま頃に開設した。
この2年の月日の経過に意味を見出すためにも、就職・転職活動にはげむ中高年世代の同胞に対しては、就職環境にかかわる好転材料や、先々にわずかでも希望が感じられるような明るい話をしたいのはやまやまだ。
しかし残念ながら、中高年の就職状況はあらゆる点でこの二年間、悪化の一途をたどっている現実がある。
いや中高年世代に限らず、現在定職を持たないすべての世代にとって、働く者としてそれなりに満足のいく安定的な仕事を確保するというごく当たり前なことの実現が、今日の日本ではますます難しくなってきているのだ。
2008年後半のアメリカ発金融危機を経て、2009年7月の速報ベースの完全失業率は5.7%。
そして有効求人倍率も0.42倍と、共に過去最低となった。
統計局ホームページ/労働力調査(基本集計) 平成21年7月分(速報)結果
男性だけでみると完全失業率は6.1%、ついに6%台に突入している。
ちなみに当サイトを開設した2007年8月の男性の完全失業率は、3.8%だった。
自己都合退職の10万人増に対し、勤め先(会社)都合による退職は65万人増。
就業者数の減少割合では製造業が突出して大きく、サービス業や建設業がそれに続いている。
メディアでひと頃さかんに報道された「派遣切り」の結果が、これらの数字にストレートに現れているようだ。
求職活動をしていない人などをカウントしない完全失業率の計算方法を考えれば、実態はこの数字からさらに悪いとみるのが常識である。
仕事はないが解雇されていないだけとか職業訓練の受講中にある「隠れ失業者」を含めると、「事実上の失業率は9~10%台」といった推測も、まずは当たっているとみていいだろう。
年齢層別に完全失業率をみると、45~54歳は4.0%、55~64歳は4.9%。
全体平均や、15~24歳の9.9%、25~34歳の7.1%よりは低いが、45歳以上についてはもともとの就業割合がそれほど高くないところから出発しているので、驚くにはあたらない。
それでも月を追うごとに、数値はほぼ確実に悪化している。
新規求人倍率は0.01ポイント良化したそうだが、それでもまだ0.77倍とあっては、プラス材料と言うには弱すぎる。
有効求人倍率にいたっては、もっとも高い香川県で0.64倍。青森・沖縄が最低で、0.24倍だそうだ。
0.24倍というと、仕事につけるのはほぼ4人に1人の計算。
青森や沖縄の中高年求職者は、この状況で、若い世代に混じって就職活動をしなければならないのだ。
当サイトでは以前、中高年の就職に関わる統計・データは、本質的に無関係(1)。で、「雇用統計などを気にしすぎるな」という趣旨のことを書いた。
結局は採用する会社とあなたとの一対一の関係だから、それだけを見つめて活動する以外にない。
今日でもその点においては、コトの本質は変わっていない。
しかし求人環境がここまで加速度的に悪くなる一方、これから総選挙をはさんで経済・雇用環境がどう転ぶのか、ますます視界不良となることはほぼ確実だ。
私が人を雇う経営者の立場だったら、雇用政策の見通しがはっきりしてくるまでは、採用などの積極的なアクションは控えるだろう。
ただでさえ飛行環境が悪いなか、しかもこれから暴風圏域に突入しようというときに、新人パイロットに操縦桿を握らせるような判断をする経営者は、ゼロとは言わないまでもそう多くはないはずだ。
追加の失業対策や採用にかかわる中小企業助成などが、あるのかどうか。
はやくても政治的に落ち着きを見せる半年後くらいに、人を少しは採っても大丈夫そうだ…と思った段階でようやくソロソロ動き始める、という企業がやはり多数派ではないだろうか。
人生経験豊かな中高年世代としては、転職・再就職活動がうまくいかないことを自己の責任としない己が大人げなく思えて、あるいは心理的抵抗を感じるかもしれない。
また、何十通も履歴書を出してもうまくいかない今のあなたに、「まだまだ努力が足りない」「仕事を選んでいるからだ」などと、周囲は無慈悲に言い放つかもしれない。
しかし雇用環境がここまでひどくなった今日に至っては、「中高年求職者のあなたが求めて職を得られないのは、まったくもってあなたのせいではない」と言い切ってよさそうだ。
あなたが自分を、一芸に秀でずともごく普通の能力の持ち主だと考えていて、それほど選り好みもせずに求職活動をやり続けている自覚があるのなら、「これだけがんばっても仕事につけないのは、もはやそういった世の中のほうがおかしい」と考えてよい時世になったということだ。
以前に現実を、「達観」せよ。などでも書いたが、いまの日本の就職環境のこのひどさは、あなたの責任に属する問題ではない。
自己責任論はどうしたって、「言って諭す側にとって都合のいい論法」である。
ごく普通の中高年世代ならば、自分のこれまでの生き様については、自身の責任をなんらかのかたちで多かれ少なかれ、心のうちでひそかに認めているものだ。
反省も後悔も、それなりにあるだろう。
「1%たりとも自分は悪くない」という人など、まずいないだろう。
それを超えて、本人が自分を責めたてるレベルまで、外部から責任を上積みし圧力をかけようとする行為のどこに、その正当性があるというのだろう。
あなたがいま自らひそかに感じ負っているはずの責任について、他人が「いや、その程度の自己責任ではまだまだ足りない」とばかりに文句をつけてくる、その軽重の測定根拠はいったい何なのだろうか。
「選ばなければ仕事はある、ぜいたくを言うな」と他人があなたに言い放つことは、あなたの人生へのあからさまな侵蝕である。
あなたの人生は、これまでも自身のさまざまな選択を通じて、あなたが作り上げてきたものだ。
そのなかで「職業の選択」にかかわる価値観についてだけ、他人が口をはさんであなたの意思決定を左右することが許されるとする理由は何なのだろう。
そもそも自分の意思で選んでこそ、「職業」のはずだ。
自分の意思や判断を介在させる余地がなければ、強制労働と大して変わらない。
職業的能力の優劣で選別されているのなら、まだあきらめもつくかもしれない。
が、今はごく普通に人生を送ってきた中高年にとっての求職のハードルが、異様なまでに高すぎる。
ただでさえ年齢差別や性差別などの非合理的要素が、ハードルそのものにビルドインされた状態から出発させられているのに、だ。
需要過多・供給過小の特殊な専門能力に長けたスーパー中高年でない限り、あるいは自分らしく働けそうにない会社に気持ちを押し殺して応募しない限り、転職や再就職することがかなわない社会なら、そんな社会のほうがどうかしているのだ。
ネットで「失業 自己責任」などと打って探してみると、賛否それぞれの意見がたくさんでてくる。
時間があるなら、いろいろと読んで考えてみるのもよいだろう。
以下、いくつか紹介しよう:
・失業問題における「自己責任」論は、間違いです。 (院生兼務取締役の独り言)
・失業は「自己責任」ではない (池田信夫 blog)
・ドイツにおける自己責任論(北海道若者サポートステーション)
ただし、「では、誰の(社会のどの部分の)責任か?」などという真犯人探しは、いまは止めておいたほうがよい。
正解にたどりついたところでさして実益はないし、そんな時間があるなら今は就職活動に使うべきだろう。
中高年のあなたが、このあまりにも過酷な環境のもとでこれからも、転職・就職・再就職の活動を続けるならば(そのつもりだと思うが)、まず手始めに「就職が決まらないのは自己責任」などと思うのを、ただちに止めることだ。
そうしてまず気持ちを少しでも楽にしてから、就職活動に戻ることにしよう。
…それでは、この先はどうなるのだろうか?
幸運にも環境が好転するかもしれないが、この先の雇用状況がさらに厳しくなる可能性も、これまでの流れからして十分にあるだろう。
どちらに転んでも、一個人としては、そのときの自分の決断に後悔の無いよう精一杯考えて動く、ということしかなさそうだ。
あるいはどこかに雇われるという選択をせず、起業してやってみることも、活路を見出すべく真剣に検討すべきかもしれない。
いやいや起業は今後のリスクが高い、困難であっても就職活動を続けるほうを選ぶ…というなら、それももちろん、ひとつの立派な選択だ。
あなたがそれを自分で選び取ったという事実だけで、それは十二分に尊重されるべきだ。
転職・就職活動を続けるにせよ、あるいは起業するにせよ、あなたは、あなたの責任にはかかわらないこの厳しい環境のもとで、悩んだり迷ったりしながらも、自分と自分の家族のためによく考え、自分で決めたことをやる。
あなたの目の前に今あるのはきっと、ただそれだけのことなのだ。
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