HOME >> 言葉

言葉 の記事一覧


スポンサーリンク

現実を、「達観」せよ。

中高年であるあなたの転職・再就職活動時の採用・不採用は、必ずしも「あなたの価値」を考慮したうえで決められているわけではない。


中高年の再就職・転職事情の厳しさは今さら言わずとも、すでにあなたがよくご存知の通りである。

北海道や東北・沖縄など就職率が「全国ワースト3」といわれる地方の状況は、とりわけ厳しい。

それらの地域では、20歳台の有効求人倍率を仮に1.4倍とすると、40歳台後半では0.2倍から0.3倍くらいで推移しているのが実際であり、20代の若者の就職活動と同じ括りで話すことがためらわれるくらいである。

人口の多い都心部はまだマシなほうで、地方ではそれくらい中高年を求める企業の絶対数が、極端に少ないのだ。

続きを読む "現実を、「達観」せよ。" »


▲先頭に戻る


決して、自分を責めるな。

中高年の転職・再就職活動にとって厳しい現実が長期化すると、どうしても最初の意気込んだ気持ちも萎え、ややもすると投げやりにな気持ちになってしまうことが多くなってくる。

しかし、この先の長い人生を見すえてほしい。まさにここが、あなたの踏ん張りどころである。

完全にあきらめて再就職活動を投げ出して引きこもってしまったり、酒やギャンブルなどの現実逃避に走ったりして、自分自身をすさんだ毎日に貶(おとし)めてしまってはならない。

踏ん張るために必要なのは、まずは十分な休息栄養のバランス、そして生活に一定の規則正しいリズムをとりいれることである。


疲れたらまずは十分な睡眠時間をとって、軽い運動をするなどして適度にリラックスすることだ。

そしてあなたに出来る範囲で、時々は意識的に気分転換をはかることだ。

夜は早めに休み、早起きして、きちんと朝食をとる。


ちなみに、大事な考え事や計画は、朝にする習慣をつけるようにしよう。

朝は頭の活動効率が、夜の3倍くらいアップするといわれている。

休息もそのとり方に変化をつけて、日々の生活の中に組み込んでいこう。

続きを読む "決して、自分を責めるな。" »


▲先頭に戻る


自分を励まし、道を照らす「言葉」を持ちたい。

安易に他人のアドバイスに頼るのも、どうかとは思う。

また、心のスキを下手なかたちで外に見せると、新興宗教などの勧誘や悪質な商法のカモにされとんでもないめに会う危険性だってある、御時世だ。


しかしまた、人はおのれの信念だけを拠り所に、人生を生きられるものではない。人はそれほどまでに、強くはできていない。残念ながら

たまたま、人生の後半に差し掛かった今、新たに生活の安定を得るための職を得るということが、我々の人生のメインテーマのひとつになってしまっているわけであるが。

そういう今、心がフワフワと所在なく漂っているような気がしている方は、今の自分が置かれている状況や今の自分の思いを照らす道あかりとなるような「言葉」を自分の手もとに置いて、時々は読むともなく読み返してみるのが良いように思う。

別段、権威者や宗教家・有名人の言葉でなくたってもちろんよく、誰の言葉だってよい。

自分で作ってもよいのだが、世界とのつながりを感じるためにも、できれば自分以外の誰かの言葉のほうがよいだろう。

文章でなくとも、詩でもフレーズでも熟語でも、要するにあなたの心の内に深く届いたメッセージを身近に置いて、しょっちゅう気にかけてあげることだ。


それらの言葉を、身近ですぐ手の届くところに置いておくと良い。

本であればいつも使う机の前の書棚の目につくところに置き、ノートに書きとめたなら、そのノートをいつでも広げられるようにしておくとよい。

続きを読む "自分を励まし、道を照らす「言葉」を持ちたい。" »


▲先頭に戻る


同じ「幻」と向き合うなら、光が強烈なほうを選べ。

よく我々は分かったような顔をして、「上には上がいる」「下には下がいる」などと言う。

世界で一日1ドル以下の「絶対的貧困」の中で暮らす人達は12億人以上おり、66億人に達する世界の人口の約2割を占めるという。

特にサハラ以南のアフリカ地域では、5割近い人が一日1ドル以下の生活を強いられているそうだ。


以前、一日1ドルで家族5人ぐらいで暮らす家庭を支える少女の海外ドキュメンタリーをテレビで見たが、実にひどい有り様だった。

基本的に、食事は市場から出てくる廃棄品の食糧が主食で、炎天下一日中歩き回ってごくわずかしか稼げないような日銭稼ぎに、毎日を費やす。

帰ってくると今度は疲れた体で、幼い弟や妹の食事のためにいつ止まるかもわからないガスを気にかけつつ、料理の準備をする。

週に1~2度、ほんの数時間だけ出席できて友達とも会える学校の授業が、その少女の人生における唯一の楽しみ。そんなような内容だった。

物価水準の違いはあるだろうが、おおざっぱな感覚でいうと「一家5人、1日600円ほどで暮らせ」と言われているようなものだろうか。


この日本でそのようなテレビ番組を見て、目をうるませながら「かわいそうな子供達」と言っていられる時点で、すでに自分がいかに恵まれありがたい環境にいる存在かということがわかる。

一日1ドル以下の生活をしている人たちは、人の生活をのぞき見る余裕もなく、自分の明日を生き抜くだけでその全神経を使い果たしているはずだから。


むろん、世界には全く逆の立場のいわゆる大富豪もたくさんいる。

経済的に「上は青天井、下は底抜け」というやつで、我々も結局はその間のどこかに所属していることになる。


たとえばリストラされて失業したりすると、我々は今の自分を不幸だと感じる。

その時の我々の目線は、遠いアフリカの貧困に苦しむ人達ではなく我々のすぐ間近にいる、毎朝ネクタイを締めて会社に向かう人たちを見ているはずだ。

しかし目線を世界に転じてみると、我々はしょせん、世界のGNPの8割を消費する超大金持ちの2割の人々と、明日一日を生きるのも困難なこれら最下層の経済状況の人々との間を、ほんのわずかに上がったり下がったりしながら日々漂っているだけの存在にすぎない。

続きを読む "同じ「幻」と向き合うなら、光が強烈なほうを選べ。" »


▲先頭に戻る


本当に必死の転職・再就職活動かを、自問する。

中高年の転職・再就職活動の体験談などを読んでいると、「何十社に履歴書を送ったものの、ことごとく断られ…」「面接でいろいろとアピールしたものの、やはり中高年であることがネックらしく…」などといった苦労話を、よく見かける。

事実として、中高年の転職・再就職活動が若い求職者に比べて不利な面があることは間違いないだろう。

しかし、上記のような体験談にひんぱんにでてくる修飾語「何十社にも」「いろいろと」の中身については、一度よく見つめてなおしてみる必要がありそうだ。

このようにお手軽な一言で自分の苦労をまとめあげてしまう心理の裏に「本当にそれほどの情熱とエネルギーを、求職活動に注いでいただろうか」という自らへの検証を、おろそかにしている面があるのではないだろうか


ここに「何十社にも履歴書を送って、面接にこぎつけたのは二社だった。面接ではいろいろとアピールにつとめたが、最終選考には至らなかった」という求職者が、仮にいたとする。

では、その履歴書を送った「何十社」の社名をきちんと書き出せるだろうか


そしてなぜその会社に応募し、どのような履歴書を書いて、そのポジションに自身が適任である旨をどのようにアピールしようとしたのか、第三者に概要を説明できる程度に思い出せるだろうか。

「面接でいろいろとアピール」したと言うなら、それぞれの会社の面接で何をどのようにアピールしたのか、はじめて話を聞く人に対してもきちんと説明することができるだろうか。


私が以前勤めていた会社で面接する側にいた時は、すべてPCソフトで作成し印刷したものに印を押して送ってきた中高年求職者の履歴書を、何通も目にした。

職務経歴書はPC作成でOKとしても、履歴書は自筆で書くべきものであることは、ちょっとした指南書等にも書いてあるごく当然のことだと思う。

「字の向こうに表れる人柄をかいま見たい」という欲求も、面接する側は有しているものだ。

PCで書いてハンコを押した履歴書をそれこそ「何十社」に郵送することは、提出側としては手書きに比べ、楽で効率的なことは確かだ。

本人としても、「一生懸命に就職活動をやりました」という気分になるかもしれない。


しかしそういうひとつひとつが「薄い」活動を束ねて「何十社にも」と表現して済ませてしまう姿勢からは、自らの求職活動を「必ず実らせてみせる」という必死の思いが、個々の面接官には何ら伝わってこないものだ。

このことは求職する側として、おぼえておいてよいことのひとつだと思う。

続きを読む "本当に必死の転職・再就職活動かを、自問する。" »


▲先頭に戻る


中高年の転職、決して「運も実力のうち」ではない。

数十通を超えて履歴書を送るような転職・再就職活動の最中、ようやく1社面接にこぎつけるも、残念ながら不採用となった。

魂をこめて書いた履歴書が、あまり読まれた跡もないままに、送り返されてきた。

最終面接で緊張してしまい上手く自分をアピールできないまま、どうやら他の候補者に内定をさらわれたらしい。


このようなとき、「今回は運がなかった」といって自分を慰めたり、あるいは身近な誰かにそう慰められたりすることがある。

また逆に、たまたま欠員補充の機会にめぐりあわせトントン拍子に再就職が決まったりした時などは、「運も実力のうちだから」と言って喜んだりもする。

「運」という単語を辞書でいくつか見てみると、「人知でははかりしれない、身の上の成り行き」とか「めぐりあわせ。幸運」などと定義されている。

いずれにしても「運」とは、「人的なコントロールの範囲を超えた」現象ということになっているようだ。

一方で「実力」とは、これも辞書の定義では「実際に持っている力量(仕事をするために必要な、知識・経験・資格など)」となっている。

ということは、その人の「実力」とは、「現実にその人に備わっている、なんらかの力」なのだから、その人の支配下にある力であり、その人の意思によってコントロールできるパワーであるはずだ。


だから、転職・再就職活動がうまくいった折に「運も実力のうち」などと言うのは、「そもそもコントロールできないものを、コントロールできる」と言っているに等しい。

理屈にあわないし、ある意味で傲慢な物言いでもある。


逆に失敗したときに「運がなかったから」というのも、不正確な表現だ。

採用する側が何人かの候補者の中からサイコロをふって決めているのだったら、あるいは「運がなかった」と言ってもいいかもしれないが、まともな会社ならば通常そんなことはあり得ない。

採用されなかった理由は、「採用活動の中止」を例外として考えると、「あなたの実力が先方の要求水準に達していないか」あるいは、「実力面で問題ないにせよ、その会社のニーズにはあわないと判断された」からの、いずれかであるはずだ。


前者の場合は、あなたは次は同じ轍を踏まぬよう、自らの「実力」のレベルアップに努めるべきだし(あるいは「今の自分の実力にあったレベルの会社まで選択肢を狭める」という手もある)、また後者の場合はあなたの転職活動にはなんら問題がなく、単にその会社とあなたの「相性」が悪かったにすぎない。

だから「運」などという、まったく関係のない言葉を持ち出す必要はない。正しくは、言葉の使い方が間違っているのかもしれない。

「今回は、あの会社と相性が良かった(あるいは、相性が悪かった)」というなら、状況の説明としては問題ないだろう。

「運」ではなく、「相性」というならわかる。ちなみに「相性」とは、「互いの性格・調子などの合い方」のことだそうだ。


細かい話をしている…と、思われるだろうか。


しかし現実のビジネスの世界では、説明のつかないことが生じたときに自分の頭を使ってその原因を考えることを止めてしまい、「運」などというあいまいなフレーズを持ち出し一件落着…としているケースがあまりに多い。

原因や理由をちゃんと説明できないことに対策を講じようとしても、基本的にうまくいくわけがないのだ。それこそ「運まかせの転職・再就職活動」になってしまう。


続きを読む "中高年の転職、決して「運も実力のうち」ではない。" »


▲先頭に戻る


カオス(混沌)に生きる、自分の気持ちを慣らす。

成功や失敗の理由を断定的に結論として話す人は、世の中にはゴマンといる。「これが勝因だった」「これが敗因となった」と。

就職活動においても、またしかり。転職・再就職活動がなかなか思うようにいかないあなたのもとにも、忠告・アドバイス・指導の名目でこれまで幾度となく就職支援会社などから、さまざまなメッセージが届いたことだろう。


しかし、ここはちょっと考えてみたいところである。

それではその「勝因なるもの」がなければ、面接は失敗していたのだろうか?その「敗因なるもの」が起こらないようにしていれば、転職は成功したのだろうか?

人はみな、自分が裁断者の立場にあるがごとく、第三者の身に起きているさまざまなことを「断定的」「確定的」に話す。

しかし言うまでもないことだが、話し手が如何に断定的表現を使おうとも、その文体の隅々にまでどれほど自信満々な態度があふれていようとも、しょせんは「ひとつの立場」「ひとつの見解」「ひとつの意見」に過ぎない。

世のオピニオンリーダーによる寄稿であろうとも、掲示板に匿名で投じられた1コメントであろうとも、その点において変わることはない。


私がいま書いているこの文章とて、もちろん例外ではない。

どれだけ書き手である私が自信と確信を持って書いたとしても、受け手のあなたからすれば、単なる一つの私的見解にすぎないわけだ。

誰かにとって貴重なメッセージを含んでいるかもしれないし、誰にとってもただのノイズにすぎないかもしれない。


転職活動でも面接でも、あなたがうまくいかなかった「本当の理由」なぞ、外から見ている人間がわかることは決してない。

ひょっとしたら当事者のあなた自身でさえ、「あれだけいい雰囲気で最終面接までいったのに、なぜ不採用だったのだろう…」などといぶかったりして、結局理由が自分でもよくわからなかった(笑)ことが、おありじゃないですか?

たとえ何十年の経験を有する転職コンサルタントであろうとも、「真の理由」などわかるはずもないのだ。

これまでの経験則で「確からしい」という辺りを話しているだけなのだが、あやふやな物言いをしているとコンサルタント商売としてはなにかと差し障りもでてくるので(笑)、自信満々の断定調で話すことで聞き手のあなたのみならず語っている自分自身にさえも、それが真実と思い込ませているわけである。


「結果よければすべてよし」という方にとっては、こんなことは問題ではないかもしれない。

しかし、いまあなたがなかなか結果がでない状態にあるならば、あなたの転職活動がうまくいかない理由を、あなた以外の誰かが明快に解き明かすことなど本当にできるのかについて考えてみるのも、あながち無意味ではないと思う。


転職活動や再就職支援のホームページをいろいろと見て回るとわかるとおり、「あなたの転職活動がうまくいかない理由はこうだ」「こうすればうまくいく。キャリア×十年の就職カウンセラーがアドバイスします」という風に、あなたと一度もあったことのない、あなたの現在の状況など知る由もない「転職コンサルタント」と称する人たちが、そこかしこで自信満々に語っているのが目につく。

「これまで××名の求職者を見てきた経験から~」と、彼らは一様にその経験をアピールする。その力強い断定的な物言いに、これまで何度も失敗しているあなたはつい、「そうかな?そうすればうまくいくのかな?」と、思うことだろう。


しかし、あなたもサラリーマンの経験がおありならわかるはずだ。

会社組織というものの本質は、「カオス(Chaos、混沌)」だ。

営利追求という単一の目的を持ち一致団結して向かっているはずなのに、構成分子のいろいろな人間がそれぞれの場面でばらばらな動きをして、最終的に予測不可能とも言える結果をもたらす。

あなたもかつては、そのカオスのまっただ中にいた。

右へ振られ左へ流され、言いたいことはぐっと胸にしまい、時には真実にも目をつぶり、自分をささやかにほめたり、あるいは自身を情けなく思ったり、あるいは同僚に悪態をついたりしながら、なんとか自分なりにやってきたはずである。

このあと幸いにもあなたの転職・再就職が決まったならば、またまた別のカオスがあなたを待ち受けている…というわけだ。


カオスのカオスたるゆえんは、「誰がどこから見ても全体の様子がよくわからない」というその無秩序さにある。

「秩序」に詳しいと自称する人間が、「無秩序」について的確に分析できるわけではないのだ。


あなたの転職や再就職がうまくいくかは、外部からはしょせんはカオスの観察のようなもの、要するにその成否や先行きも含め、誰もよくわからない…ということである。


しかし、もし思い通りにいかなかったとき、物事がうまくいかなかったときの「あなたの心の持ちようをどうするか」については、完全にあなたの守備範囲だ。

それだけは確かにあなた自身の手で、コントロールすることができる。


続きを読む "カオス(混沌)に生きる、自分の気持ちを慣らす。" »


▲先頭に戻る


視界不良の雇用環境下、一人の中高年求職者として。

当サイトを開設して、はや8年が過ぎた。

この数年の月日の経過に意味を見出すためにも、再就職・転職活動にはげむ中高年世代の同胞には、就職環境にかかわる好転材料や、先々にわずかでも希望が感じられるような明るい話をしたいのはやまやまだ。

しかし残念ながら中高年の就職状況は、この数年間改善らしい改善をみていないという現実がある。

いや中高年世代に限らず、現在定職を持たないすべての世代にとって、働く者としてそれなりに満足のいく安定的な仕事を確保するというごく当たり前なことの実現が、今日の日本ではますます難しくなってきていることは疑いない。


2014年平均の完全失業率は、3.6%。各種の報道によると、わずかながら改善傾向にはあるそうだ。

正社員でなく、近年増え続ける非正規雇用者数の伸びが支えている「改善」であることを思えば、さほど喜ばしい気持ちにはなれない。中高年の求職者にとっては、なおさらだ。

求職活動をしていない人などをカウントしない完全失業率の計算方法を考えれば、実態はこれらの数字よりさらに悪いとみるのが常識である。

職についているが仕事は無く解雇されていないだけの「実質的な無業者」や、職業訓練の受講中にある「隠れ失業者」までも含めると、「事実上の失業率は9~10%台」といった推測もかなり真実に近いとみていいだろう。


当サイトでは以前、中高年の就職に、統計・データは無関係(1)。で、「雇用統計などは気にするな」という趣旨のことを書いた。

結局は採用する会社とあなたとの一対一の関係だから、それだけを見つめて活動する以外にない。今日でもその点においては、コトの本質は変わっていない。


人生経験豊かな中高年世代としては、転職・再就職活動がうまくいかないことを自己の責任としない己が大人げなく思えたり、あるいは心理的抵抗を感じるかもしれない。

また、何十通も履歴書を出してもうまくいかない今のあなたに、「まだまだ努力が足りない」「仕事を選んでいるからだ」などと、周囲は無慈悲に言い放つかもしれない。


しかし中高年の雇用環境がここまでひどい状況に至っては、「中高年求職者のあなたが求めて職を得られないのは、まったくもってあなたのせいではない」と、言い切ってよさそうだ

あなたが自分を、一芸に秀でずともごく普通の能力の持ち主だと考えていて、それほど選り好みもせずに求職活動をやり続けている自覚があるのなら、「これだけがんばっても仕事につけないのは、もはやそういった世の中のほうがおかしい」と考えてよい時世になった、ということだ。


以前に現実を、「達観」せよ。などでも書いたが、いまの日本の就職環境のこのひどさは、あなたの責任に属する問題ではない。

自己責任論はどうしたって、「言って諭す側にとって都合のいい論法」である。


ごく普通の中高年世代ならば、自分のこれまでの生き様については、自身の責任を何らかのかたちで多かれ少なかれ、心のうちでひそかに認めているものだ。

反省も後悔も、それなりにあるだろう。「1%たりとも自分は悪くない」という人など、まずいないだろう。

それを超えて本人が自分を責めたてるレベルまで、外部から責任を上積みして圧力をかけようとする行為のどこに、その正当性があるというのだろう。

あなたがいま自らひそかに感じ負っているはずの責任について、他人が「いや、その程度の自己責任ではまだまだ足りない」とばかりに文句をつけてくる、その軽重の測定根拠とは、いったい何なのだろうか。


「選ばなければ仕事はある、ぜいたくを言うな」と他人があなたに言い放つことは、あなたの人生に対するあからさまな侵蝕である。

あなたの人生は、これまでも自身のさまざまな選択を通じて、あなたが作り上げてきたものだ。

そのなかで「職業の選択」にかかわる価値観についてだけ、他人が口をはさんであなたの意思決定を左右することが許されるとする理由は、何なのだろう。

そもそも自分の意思で選んでこそ、「職業」のはずだ。自分の意思や判断を介在させる余地がなければ、強制労働と大して変わらない。

続きを読む "視界不良の雇用環境下、一人の中高年求職者として。" »


▲先頭に戻る


スポンサーリンク


すべての記事(記事一覧)こちらから

▲先頭に戻る